農哲副読本 農から学ぶ「私」の見つけ方(5)
○もう一つの世界:中真
もう一つの世界は「身体(細胞)が感じる美味しさ」の世界ですが、それは独自の世界(幻想の世界)の裏に隠れた世界です。そしてその世界には、農哲でいうところの「中真」(前作P64~)が存在しています。「中真」はすべての世界とつながる核のようなもので、すべての人は中真を宿して生まれてきます。ところがあとから取り入れた情報がゴミとなって中真の周りを覆っていったり、思考のクセが中真から発するメッセージを受け取れなくします。その結果、大人になる過程で中真の存在を忘れ去り、思考が創りだす世界がすべてと思うようになり、バランスを崩していきます。
人間の意識には顕在意識・潜在意識・超意識の3つの意識が存在するといわれています。顕在意識は私たちが普段感じているこの意識で、潜在意識はその裏に隠れている意識です。ここまでは「私」という「個」に付随した意識です。そこまでは何となく理解できますが、さらにその奥に超意識があるというのです。超意識は個の枠を突き抜けすべての意識とつながっています。すべての意識が超意識に畳み込まれているのです。中真の正体は超意識です。
中真は、思考のクセとは真逆の特徴を有します。そこにすべての情報が畳み込まれています。生まれた時から中真は内にあるので、探している情報(答え)は外ではなく内(中真)にあります。
全てがそこにあるということは、分離していないということです。それは「ひとつ」として存在し、分離していません。分離していないので比較することもできず、違いを認識することもできません。
さらには、中真には過去も未来も存在しません。過去と未来も時間軸のすべては「いま」という一点に畳み込まれています。ですから過去にとらわれることもありません。このように「この世界」と真逆な状態が「もう一つの世界」の姿です。この二つの世界に善悪はありません。コインの表と裏の関係でいつも同時に存在しており、私たちはこの2つの世界を同時に生きています。しかしそのことを忘れ、両者が乖離してしまったことが、人生における様々な課題を生み出します。
○比較する
その乖離は思考のクセによって生み出されたもので、課題を生み出す原因は自分の内にあります。しかし様々な課題や試練は外からやってくるもので、自分に原因があるといわれても納得できません。そもそも「思考のクセが課題を生み出す」という仮説は正しいのでしょうか。
例えば、「どうして自分だけがこんな目に合わなければならないのか」と思うことについては、そうではない他人と自分を比較することでそう思います。それはとても普通のことで、それはクセだといわれても、あなたはバカかといわれそうです。
他人との比較は、自分は「何か」と分離しているという分離感によって生み出されるクセのように感じます。しかし人は皆、この世に誕生する時に母から切り離されるという大きな分離感を体験しています。この原体験が根っこにあるので、簡単には消せません。この課題はきっと最後まで残りそうです。でも比較するというクセは後から身に付けたものなので、これを消すことは可能です。
私たちは周りの人を観察します。そのことは別に悪いことではありません。でも観察した次には、「だからあの人は○○だ」というジャッジ(評価)を下していませんか。その評価が正しいとしても、それはその人の特徴(問題)であってあなたには関係ありません。その人はそれが理由で大きな課題と向き合っているかもしれません。相談されたら、アドバイスをしてもいいでしょう。でも、最終的には自分で答えを見出さないとその課題は解決しません。あなたが関与できない問題にあなたが評価を下す必要は何もありません。
他人を評価するということは、あなた自身が周りの人からどう思われているかという人の評価を気にしているからです。でもあなたが人からどう思われているかは、あなたには何も関係ないのです。あなたの問題はあなたにしか解決できません。それが夫婦間の問題といった、複数の人間がかかわるものであっても同じです。それを問題だと感じているあなたを救えるのはあなたしかいません。
「どうして自分だけがこんな目に合わなければならないのか」という気持ちは、そうではない他人を探し出し、その人がうらやましいという感情が根っこにあります。しかし、他人がどんな生活をしていようと、あなたの人生とは全く別物なのです。今のあなたにとって、あなたを救うことだけが重要課題なのです。
自分と正面から向き合うことに集中するために、人からの視線(評価)は受け流しましょう。そしてそのためには、あなた自身が人を評価しないことです。比較することの目的が評価することにあるのなら、評価しないことで、そのクセを消すことができるかもしれません。クセを消した先にはあなたが救われるという現実が現れます。
○オンリーワン
比較することをもう少し掘り下げます。
例えば、畑でできたニンジンとダイコンを比較する人はいません。なぜなら意味がないからです。意味のないものを比較してそこに意味を持たせようとしているところに問題が生まれます。
同じ種から育てたニンジンでも、その育て方(農法)で出来が異なります。その場合、出来が異なるニンジンを比較し、その違いが生じた原因を突き止め、育て方を改善していくのであれば、比較することに意味があります。
しかし、ニンジンとダイコンを比較するのは人間とサルを比較するのと同じであり、そんなことはだれもしません。人と人を比較するのは、出来が異なるニンジンを比較するのと同じで意味があるのではないでしょうか。
答えは否です。
あなたがニンジンとして生まれたのであれば、他にニンジンとして生まれた人は一人もいません。私たちは生まれながらに個性を有しています。個性はオンリーワンであり、個性の違いに良いも悪いもありません。
私たちは、生まれた時から「本来の(あるがままの)自分」を有しています。しかし「今の自分」はそれとは異なる姿をしています。比較して意味があるのはこの両者を比較することだけです。「今の自分」のどこが歪み、その歪みを生じた原因を突き止め、「本来の自分」を取り戻していくためにです。
「自分のなすべきことがわからない」といった課題も、本来の(あるがままの)自分を見失ったことで生まれます。そしてその答えを外に探しに行きますが、そこに答えは見つかりません。
しかし中真には全てが最初から存在しているので、そこには本来の自分の姿もあります。答えを外に探しに行かなくても、最初からその答えを内に持っていたのです。ですから見失ってしまった中真とつながれば答えもわかります。
さてこの仮説が正しいかどうかは、すべての人が検証可能です。あなた自身が実際に体験してみればわかります。そしてその検証作業は、とても楽しい作業となります。次に中真とつながる方法を考えます。
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